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運と縁と依怙贔屓

 

 

 

藝大の入学式で学長がこんな事を言ったのを覚えています。

「ここに居られる皆さんは何かしらの強運の持ち主です」

 

至極稀に、隕石が直撃して亡くなる生き物がいて、

でもそれも1つの強運だよなあと思って聞いていた記憶があります。

 

最近は、

親ガチャなんて言葉ができるくらい、

隣の芝を青々と見る人が増えてきて、

あの透明カップに

穴の空いた黄緑とかの蓋をした

ガチャのカプセルに両親を詰め込んで、

アスファルトの上であちこちの話に花を咲かせているようです。

親との縁を切りたい!

とか叫んでいたりしています。

 

では縁とは一体なんだろうかと。

袖振り合うも多生の縁

金の切れ目が縁の切れ目

なんて言葉を耳にはしますが

なんだか常に自分で選択しているもののような気がします。

運の良し悪しは

偶然に身を委ねているけれど、

縁は自発的というか。

そういう意味では、

唯一選択権のない縁は

親とのものだけで、

それは運とも言える気もします。

 

「ガチャは自分で回すもの」ですよとは、

言わずに通り過ぎることにします。

 

 

ところで、

最近よく「天才だ」

と声をかけて頂くことがあります。

思えば自分に

頭や才があるとは微塵も思ったことのなかった私に、

「勉強できるねえ。勉強家だねえ」

と声を掛けてくれたのは

芸術学の先輩先生でした。

そもそも勉強が何を指しているのか

わからないまま40手前まで生きた男にとっては

目から鱗が落ちる思いをした印象があります。

 

ああ、そうか。

私がしていること自体が勉強なのかと。

 

それからは私から、勉強という言葉が消え、

伸び伸びと老け続けています。

そしてこの「天才」という言葉。

あれこれとまた考えてしまうわけで、

ただただ謙遜しヘラヘラとするしかありませんでしたが

 

最近、私は天才でもいいかと思うようにしました。

いつもの自分の物差しを引っ込めて、

そう思うようにしました。

勉強ができない、

才がないと諦めること自体を

諦めたわけです。

 

今日、

そうして勉強や天才という言葉が

私から消えた途端、

色々な運と縁が生まれ繋がっていくのがとても不思議で、

それは今も継続しています。

 

起きたことに抗わず、

縁を主体的に選び、

親切や贔屓に触れながら

毎日を過ごせているのは

生まれて初めてかもしれません。

 

学長、やはり私にも強運がありました。

 

島地勝彦先生

「運と縁と依怙贔屓」

本当に良い言葉ですね。

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